先代萩の浅岡(政岡)の打掛(うちかけ)
芝居上演になくてはならないものは、何といっても衣裳、鬘(かつら)です。
古文書によれば、衣裳や鬘を作り、貸し出しをする家がいくつかあったようです。しかし、地歌舞伎の衰退とともに姿を消し、衣裳は散逸していきました。
戦前には岐阜県内にも、4家ぐらいあったようですが、現在では恵那市東野町と、そして私のところの2ヶ所のみであります。
ニ、三の地方では、自前で衣裳をつくったりしているようですが、歌舞伎には「役衣裳」といって、特別な柄、紋様のもので、その芝居のその役のみが必ずそれを着るという約束があります。
例えば、先代萩の浅岡(政岡)の打掛(うちかけ)は、竹に雀の紋様。白浪五人男の場合は、五人それぞれにゆかりの模様。菅原伝授手習鑑の松王丸の着付羽織は、雪持松の縫い取り模様です。
また割り衣裳(ぶっ返り)といって、肩につけてある小さな「タンポ」をつかんで引っ張ると、肩の縫い目から衣裳が割れる仕掛けになっており、こじきのような姿から一瞬にして、御大将の姿になるようなものもあります。
左より、小忌衣(おみごろも)、四天(よてん)
私のところの衣裳は、古文書にも記されている土岐郡安藤家のものをすべて引き取り、江戸期より伝えられた貴重な衣裳です。
大変傷んでいましたが、江戸期、明治初期の衣裳などは、金糸、銀糸で縫い取りが施され、力士の化粧まわし以上に精巧な技術が結集されています。
縫い取り部分は着物なので化粧まわしの四倍以上あります。特に「四天(よてん)」「小忌衣(おみごろも)」と呼ばれるものは、縫い取りされた金糸・銀糸模様の部分には、綿などの詰めものをして凹凸をつくり、薄暗い証明の中でも図柄が立体的に見えるように工夫が施され、大変重いものです。
使用されている衣裳生地はビロードを用いていますが、明治以前、ビロードは大変高価な物だったようで、江戸期はもっぱら中国から輸入され、その技術がようやく日本に伝えられたもので、一般庶民が簡単に手の届くようなものではなかったようです。
これらの衣裳の一部は、現在も実際に地歌舞伎公演に使用されています。また、美濃歌舞伎博物館「相生座」とミュージアム中仙道に展示されており、当時の隆盛ぶりをしのぶことができます。