本来の役者ではない一般農民たちによって演じられる、人形浄瑠璃や狂言、歌舞伎芝居などを総称して地芝居といいます。
特に歌舞伎については地歌舞伎と呼ばれ、江戸期より伝統的に受け継がれ、祭礼などと結びついて年中行事的に行われるものをいいます。
日本各地で行われている地歌舞伎の中でも、さらに三つの地域のものについては、ある理由から、研究者の間では、日本三大地歌舞伎という呼称で調べられています。
以上三地方の地歌舞伎を指して呼ばれるものです。
今、国内の各地方で上演されている歌舞伎を含めての素人芝居は、徳川幕府がその支配力を失った19世紀の初頭から全国的に広がりました。
素人歌舞伎は燎原の火ごとく、幕府の圧政に反発するような勢いで発展したものであり、前に述べた三地方の歌舞伎とは全くその発生を異にするものです。
開府当時の幕閣は、農民が力を持ち団結すること、そして外様大名が経済力・軍事力を蓄えることを最も恐れ、農民が娯楽のために集まったり行事を行うことについて、たびたび「停止」を発令しました。にもかかわらず、この三地方については寛大であり、容認していたということは、誠に不思議な歴史的現象です。
美濃の地歌舞伎の背景と、三大地歌舞伎の伝承を私見を交えて述べてみます。
「相模歌舞伎」は小田原を中心として伝承されたものです。箱根の「天下の険」を越えた第一の城が小田原城でした。江戸開府当初は大久保長安が城主で、長安失脚後は幕府の直轄領として、旗本を城代として相模一帯の代官の支配地にいました。江戸に対する東海道最後の防衛線です。
「播州歌舞伎」ですが、播磨の国といえば現在の兵庫県地方に当たり、小田原城同様に旗本を城代とし、その指揮権は御三家である紀州徳川藩でした。河内の国、和泉の国一帯は幕府の親藩で固め、西国の外様大名に備えたものでありましょう。 さて本題の「美濃歌舞伎」です。
中山道六十九次で美濃の国は東は落合宿に始まり、西は今須宿に至り距離、宿駅(十六宿)は全体の四分の一を占めています。
中山道は、名古屋城のからめ手的立場にあり、ここを支配する中心は尾張徳川藩でした。沿線には外様大名を配せず、直轄領として、親藩、旗本領で占めました。なおかつ宿駅は、信濃の国に至るまですべて尾張藩の支配地でした。
幕府は、相模、播磨同様、美濃も極めて重要な地域として位置付けていたものと思われ、その三地方に対する政治的配慮から発生した農民文化の一つが、地歌舞伎であったようです。
江戸開幕当時、将軍家康が直轄領、旗本領に布告して、幕府に対する年貢は「四公六民」と定めました。美濃の国(幕府の直轄領)などでは、幕府に至るまで、かなり忠実に守られたようです。
高山祭りの豪華な山車(※写真参照)などは、今つくれば一億円以上もします。そのような行事を外様大名家が年中行事として行ったとすれば、財力を消耗させるべく無理な仕事を命ぜられることは明らかです。
江戸の町民には税を課すこともなく、祭礼(三社祭)の時には千代田城内まで神輿をかつぎ入れ、将軍の上覧を許したことなども、幕府がおひざ元の町民に対する撫民(ぶみん)政策でありましょう。
同じように、先述の三地方に対しては、地歌舞伎を容認することが、撫民政策の一つであったといえます。現代の人々はこんなことで撫民できるものだろうかと思われるでしょうが、江戸期の身分制度の厳しさは、現代人の想像を絶するものがあります。
身分制度の極めて厳しかった時代に、芝居の上とはいえ、一般農民が着ることを許されていないような豪華な衣裳をまとい、大小の刀を差して、武士にも、大名にも、身分の高いお姫様にも変身できるという楽しさは格別の喜びです。
これが年中行事として許されるとなれば、祭礼の出し物や配役などの相談をするのが、一村一郷を挙げての楽しみだったのでしょう。
出演者と観客が旧知の間柄であるのも、現在の人気役者または歌手とファンの関係以上の熱狂ぶりであったものと想像されます。
相模地方、播磨地方、そして美濃地方の歌舞伎の発生と伝承はかなり古く、美濃の歌舞伎については、1621(元和七)年、「上呂村久津八幡宮立願書」に端を発し、1687(貞享四)年、「久津八幡宮祭礼日記」における奉納舞、1706(宝永三)年からの「久津八幡祭礼次第」などに上演演目、役割などの記録が事細かに書き残されています。
幕府の存続上の必要からこの三地方には特別な庇護を与え、一揆または政治批判を、娯楽の振興で抑えるための一種の撫民政策をもって望んだものと思われます。
美濃の地歌舞伎の分布は、中山道東美濃の国と信濃の国の沿道一帯、中山道中津川宿から北上する飛騨街道の沿道地域、そして奥三河(現在の愛知県東加茂郡尾張旭町、西加茂郡藤岡町、小原村)一帯に及んだようであり、その中心となるのは、美濃の国土岐郡であったようです。
古くから言い伝えられていた、「西の花火、東の芝居」という言葉がその多くを語っています。
天保年間(1830~1844)、尾張藩書物奉行手代並役・宮田敏の中山道・木曽街道薮原宿の記録『岨俗一隅』の中に、芝居の段取りが事細かに書かれています。美濃の地歌舞伎文化は、信濃、奥三河、飛騨の地方にまで及んだようです。
他の地方、特に外様大名領などでは、幕府の意向を配慮して、芝居、集会に対し、領地内にたびたびの「停止」の触れ書きをしているにもかかわらず、中山道の沿道の村々に限ってはそのようなこともなく、「祭礼に芝居を興行するに当たり、代官様より金拾両下し置かれ」などの記録も残されており、撫民政策をうかがわせるものでありましょう。