瑞浪市内に残る宮舞台
芝居の上演には、舞台と客席が必要であることは当然です。美濃地方では、江戸期より三つの方法が採用されてきました。
その一は、筵(むしろ)囲いの仮小屋・仮舞台。その二は、神社の拝殿を舞台にするために、あらかじめ回り舞台(盆)の構造を施し、客席は土や芝の上にゴザを敷いて座る本当の芝居で、これを宮舞台と称します。
その三は、客席にも屋根があり、客席は板張りまたは畳敷きもある立派な農村舞台と呼び得るものです。
急造の掛け小屋は別にして、宮舞台と本格的な芝居小屋については、1967(昭和42)年から71年にかけて、岐阜大学の日置先生、東洋大学の景山先生、中部工大の竹内先生、当時の岐阜県文化財審議委員の安藤守人先生らによって調査されました。
それによると客席も屋根も持つ劇場は19棟。神社の拝殿や籠所および神社などに関係ない独立舞台(客席は露天)は約114棟。合計130棟を超える建物の存在が調査、記録されています。全国で舞台が最も多い地域は岐阜県で、いわゆる中濃、東濃、北濃の地域に密集しています。地歌舞伎は中山道と、飛騨街道で盛んだったことがうかがわれます。
こうした芝居小屋はいわゆる営業小屋とは違い、その地域の公民館的要素を持ったもので、村の生活には欠かせないものでした。明治期に入ると次々と建設された様子が資料に残っています。
二つの芝居小屋を移築し、合体復元させた 美濃歌舞伎博物館 相生座
村の芝居小屋は自分たちが上演するほかに買芝居、請芝居といって、プロの役者たちの興行をするのも楽しみの一つでした。
しかし、映画・テレビという娯楽の変化につれて地歌舞伎が下火となり、小屋そのものも必要とされなくなり、今度は次々と壊されてゆきました。
そんな一つが、ゴルフ場の敷地内という特異な場所にある美濃歌舞伎博物館「相生座」です。
これは恵那郡明智町にあった常盤座(明治初期まで名古屋の大曽根にあった芝居小屋を明智町に移築したもの)の舞台材料と機構を、また1894(明治27)年に一村が総力を結集して建てた益田郡下呂町宮地の相生座を譲り受け、1976(昭和51)年に移築し合体復元したもので、往時の農村舞台の姿をよくとどめています。
「相生座」を美濃歌舞伎博物館としたのは、江戸時代末期より明治、大正、昭和の4時代に至る農村歌舞伎の衣裳、かつら、小道具類約4,000点を収蔵しております。その中から選んで展示して来館された方々に見ていただき、小屋の持つ独特な雰囲気を味わっていただくためです。
また、これらの衣裳や小屋を使って、年2回、わが社の従業員によって1972(昭和47)年に結成した「美濃歌舞伎保存会」の公演を行っています。まさに生きた博物館といえましょう。