「ろうそく芝居」や「地芝居」には歌舞伎の原点があるのです。大歌舞伎では洗練されすぎて、幾つかのものが失われてしまいました。素朴な味と誇張しての表現の良さが。芝居はお祭みたいなもので、みんなと一緒に楽しむもので、その場にいるお客さんと舞台の上が一緒に盛り上がる。それが地芝居には残っているのですね。
岐阜にはずいぶん通いましたね、地芝居が好きな土地柄ですね。
松本団升さんとお会いしたのは、小栗さんのご紹介です。何度となく相生座を訪ねる折りに、お会いし、いろいろ話を聴かせていただきました。大歌舞伎ではすでに消えてしまった「型」(演出)をよくご存じの方で、東京や名古屋へもおいでいただいたことがありました。実際にその型を見せていただきながら、細かく質問させてもらうのです。
昔の型というのは今、大歌舞伎で絶滅しているものが多いのです。
特に戦後は洗練されすぎてしまい、古い型はだれもやらなくなってしまったのです。<安達ヶ原三段目>で言えば、今の歌六さんのひいおじいさんに当たる昔の歌六さんが有名だったのです。多分その型の流れなのです、団升さんが伝えているのは―。今は歌六さんの系統ですら知らない。また先代の中村吉右衛門さんが変えて、勘三郎さんがさらに変えて、まったく別のものになってしまっているのです。
非合理の魅力や、ばかばかしいところがすっかりなくなり、スマートになってしまっているのです。だから江戸歌舞伎の非合理の魅力とか誇張された表現の魅力がないのです。理屈抜きにおもしろいはずのものが、すっかり写実的になっているのですね。 型はファッションと一緒でハヤリスタリがあり、今は合理的なものは飽きられていると思います。むしろ昔のものが新鮮に見えるのです。そんな中で型を選択していくのですが、昔の型を知っているのと知らないのでは、選択の幅が全く違うのです。だから昔の型を知るということは大切なのですね。 「型破り」という言葉がありますよね。型を破るというのは、型を踏まえた上でそれを崩して新しいものを創る、ということが大切なのです。基を知らないと自分で勝手に創ってしまう。そうすると面白くないものが出来あがってしまう。創造は「型破り」の面白さなのです。何も知らないでメチャクチャ創るのは型が無いから「型無し」になってしまうのですよ。 大歌舞伎の人が知らない型が地方に残っていた、ということが実に重要なことなのです。